2009年4月21日火曜日

書評1 「人間機雷「伏竜」」

mixiに書いていた書評を転載します。

「人間機雷「伏竜」」     著者:瀬口晴義

「伏龍」と言って何を意味するか瞬時に理解出来るような人は、世間的には右翼気味の人か軍事オタクの人くらいではなかろうか。大半の人は、太平洋戦争末期の特攻の手段として、航空機が弾薬を抱いて洋上艦に突入する「神風」、或いは手動操作魚雷に乗り込み敵艦を撃破する「回天」は聞いたことがあっても、「伏龍」は聞いたことがないのではないか。

 「伏龍」とは、第二次大戦末期(太平洋戦争、或いは大東亜戦争末期)に数多く採用された特攻作戦の内の一つである。その内容は、1945年の大戦末期に、米軍主体の連合軍の本土襲来に備えるべく、旧日本帝国海軍が水際での防衛作戦を思案した結果ひねり出された作戦であり、沖合から重戦車を搭載、輸送する揚陸艇に対し、水際の海底に潜水服を着こんで機雷を抱いた兵士を配置し一兵一沈の意気で自爆攻撃をかけるというものである(幸い、本土上陸作戦が行われなかったため、実戦に用いられることはなかった。)イメージしやすく言い換えると、ダイバーが水中に機雷を持参して待機し、敵艦船が現れしだい体当たりで機雷を爆発させようということである。この壮絶な水際特攻は、訓練において死亡者、罹患者は出たが、結局実戦配備されることはなかった。当時極秘で立案、展開された作戦だったため、資料などは敗戦の折にほとんど焼却されてしまい、正確な兵士数、死傷者は未だに掴めていない。
 作戦そのものについて、多くの指揮官、上層部が「あまりにも原始的」「全く実用的でない」などと酷評し、現場の兵士達も「戦果が上がるとは思えない」と考えていた様だ。海中に部隊を展開させても、最初の一人が自爆したら他の仲間も爆圧で吹き飛んでしまうからだ。そもそも、潜水服は急ごしらえで準備出来た様だが、自爆に用いる棒機雷は殆ど配備されず、木造の模造品で訓練を行っていたという有様だ。何故そんな状況で「伏龍」部隊が編成されたのか?答えは、余剰人員の処理である。一億総特攻の思想の下、船舶、航空機、燃料等の不足から各部隊で生じた余剰人員と、搭乗する航空機がない予科練(海軍飛行練習生、パイロットの卵)の少年達が「伏龍」に充てられたのである。いかに死を覚悟して入隊したとは言え、上官達も現場も誰も期待していない、原始的極まりない作戦に従事せざるを得ないとは、悲惨過ぎて言葉もない。

 本書は、旧日本軍が特攻に頼らざるを得なくなった推移を、素人にも分かりやすく記している点で評価できる。「圧倒的な米軍の物力に対し、一矢報いて講和に持ち込む」という日本の構想を実現するには、残された最後の資源、人命を注ぎ込むしかなかった。そもそも、特攻=特別攻撃とは、旧海軍においては「生存確率10%以下」の作戦に過ぎなかった。戦局の悪化につれ、軍備、人員、何にもまして大局眼を失った指揮官達が特攻を自死を前提の攻撃にし、過剰に美化して一般化していってしまった。物資、燃料の絶対的欠乏とあいまって、素人目に見てもあまりに無謀、無計画である。本書は、当時の大日本帝国が最も避けるべき命の消耗戦に突入してしまった経緯と、それに対する批判を分かりやすく述べている。特攻=兵士の命を弾薬代わりにするという作戦は、軍事的に考えて戦闘機や空母を数ヶ月、数年スパンで生産するのに対し搭乗員の養成(出産から成長も含めて)には十数年かかるという現実を全く理解していない愚策であった。勿論、一つ一つの局面においては戦果をあげることも出来たが、恒常的に行う基本作戦に用いるのは補充の面でも不可能である。

 気が付けば、高校球児は10歳近く年下だし、箱根駅伝を走るのも5歳以上年下の連中になってしまった。しかし、時代は違えども自分より5,6歳、或いは8年も年下の者達が将来ある命を散らしていった時代が確かにあったという事実は、時折非常に重苦しく自分にのしかかってくることがある。あまりにも早く失われた彼らの命、それ故に残された強烈な志をどう引継ぎ活かしていくのか。敗戦後60年以上経過しても、その答えははっきりしていない様に思える。

0 件のコメント:

コメントを投稿